深沙大将立像:存在し得ないリアリティ

100520_jinjyataisho.jpg 高野山霊宝館に常設展示され、仏像愛好家の間でも人気の高い深沙大将立像。霊宝館の中でもひときわ目を引く異形の像である。向かい側に立つ執金剛神像と合わせ、鎌倉時代、快慶の作と推定されている。
 逆立った髪、なびく衣、隆々とした筋肉に浮き出た血管、そして力強いポーズ。静かに真正面を向いた如来や菩薩の像に比べると、躍動感にあふれ、"リアル"な迫力を感じるのではないだろうか。しかし、このような姿の実体が存在し、仏師がそれをモデルにしたということではもちろんない。
 深沙大将立像には、髑髏の首飾りや、像の顔を穿いた脚、腹部の童子の顔等、人々の注目を集める異様な表現が数多くある。しかし、この異形の姿にリアリティを与えている力強い肉体こそが、実はあり得ないのである。
 まず目を引くのが、腹部の八の字に盛り上がった瘤状の連なりである。力強く逞しく見える表現だが、実際の人体の筋肉はこのような構造をしていない。外腹斜筋の表現ととらえる人もあるようだが、肋骨弓の誇張表現ではないだろうか。胸部の中程に横に走る溝も、肋骨のイメージが大胸筋の隆起と混ざってしまったように見える。そして、鍛えられた上肢に対し、下腹部はぽっこりとして全く筋肉が感じられない。一体どのような鍛え方をすればこのような身体になるのだろうか。

 深沙大将立像のこれらの誇張された肉体表現や、上半身裸で下方を睨みつけるポーズは、同時代に多く作られた仁王像とよく似ている。天平時代、立体像としては日本最古の仁王とされる法隆寺中門の仁王像にも、同様の特徴は既にあらわれていた。唐代の中国において様式化されていた仁王像の影響を受けたものである。
 鎌倉から江戸期にかけて、これらの肉体表現の特徴はさらに様式化され、単なる装飾と化していくことになる。例えば、腹部の八の字の隆起が横一文字になったり、それがさらに三列になったりと、完全に元の意味が失われてゆくのである。時代が進むにつれてリアリズムから遠くなってしまうとはおかしなことだが、模倣は、劣化を伴うという事実のあらわれでもあろう。仏師たちは人間のモデルを使うことなく、過去の作品の複製を繰り返すことで仏の姿を伝えようとしてきたのである。そういった流れの中にあって、慶派は独自の美意識で現実を超えたリアルさの表現に到達した希有な例であろう。

 快慶と同じく慶派の定慶の作である興福寺の仁王像は、小振りで人間サイズだ。上肢と腹部はバランスよく鍛えられ、極端な誇張がなく、より現実の人体に近い。しかし、解剖学的に正しい人体と、解剖学を無視した誇張表現と、尋常ならぬ迫力を感じさせるのはどちらであろうか。そもそも深沙大将は人ではないのだから、人に似せて作ることは、必ずしもリアリズムの追求とはならない。
 気持ちの上で感じる"リアルさ"と実際の"リアル"には、しばしばギャップが生まれる。偉大な存在を思うとき、心のなかでのイメージは大きくなりがちだ。大幅なデフォルメを加えて、ようやく釣り合うのである。深沙大将のような常人を超えた存在の"リアルさ"を表現するには、リアルを超えていなくてはならないのである。

2009/08/16, 高野山大学院, 日本密教美術(担当:森雅秀先生)レポートとして


参考:
高野山霊宝館【収蔵品紹介:仏に関する基礎知識:深沙大将】
http://www.reihokan.or.jp/syuzohin/hotoke/ten/jinjya.html
写真のカッコイイしおりも、霊宝館で購入可能。

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熊谷 惠雲 (vivian)
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