臨済宗の住職で、芥川賞作家でもある玄侑宗久氏の『禅的生活』。犬のナムと猫のタマを引き合いに出しながら、気楽な語り口で生活に生きる禅を解説しています。
読者は禅語のシャワーを浴びながら、悟りの世界を覗き見し、また日常生活に戻ってきます。
とにかく難しい禅用語がどんどん出てくる。仏教や禅についての前知識がないと、一読では面食らうばかりかもしれません。おまけに、玄侑さんは科学者的視点も持っていますから、脳科学的な話もでてきちゃいます。(このあたりは、『禅と脳―「禅的生活」が脳と身体にいい理由』でさらに詳しく掘り下げられています。)
けれど、何度も開いているうちに気になる言葉もでてくるし、禅僧の風流な歌が心にとまったりします。
たとえば「一切唯心造」。人は自分の妄想(もうぞう)がつくりだした世界を見ているだけだと言う、シビアな『華厳経』の言葉。
チベット仏教僧も心理学者も、同じことを言っていましたね。だからといってその妄想から簡単には離れられないのが我々凡夫なわけですが。。
坐禅によって目指すのは、一物もない、曇りのない心。
それが、「本来の面目」とか「無位の真人」といわれるものなんですね。

玄侑さんは、小説作品でも仏教と人の心の問題を取り扱っています。
受賞後第一作『アブラクサスの祭』は、なんと躁鬱病でロッカーな坊さんの話です。ナムという犬も登場します。
主人公の浄念の心は、「一切は唯だ心の造りしものなり」と念じながらも妄想にゆれています。躁鬱の薬を飲むのをやめ、「ありのままの脳」で生きる浄念は、ライブの恍惚の中、異教の神霊アブラクサスの啓示を受けます。「おまえはそのままで正しい」と。(『20世紀少年』で"ともだち"も山さんに言ってましたけど。。)
無限の可能性を持つ「無位の真人」である自分。けれど揺れ動く存在である自分。
全てを「風流」と受け入れてしまう『禅的生活』のヒントがつまった本です。




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